清水灯子の日記

都市か、あるいは郊外に住んでいる清水ちゃんの日記。

年末の七夕

12月20日

家の中で聞いたことのない音が二回か三回鳴って、怖かった。「トレモロ!」というか見方によっては「ディアボロ!」みたいな感じの音で、湿気と煙草の臭いが移った洗濯物というのはもう、おげげといった感じなのはご存じでしょう、急に金に汚くて性格の悪いおっさんがウチ来たんかなという臭いで、それが一緒なもんだからかえって得体の知れないもんよりおっそろしかったから、ギャっと外に出てしまった。ご存じでしょうって、そりゃ私は知っていますわな、私だから、というかそれが分からんだったら私であることを疑う思いがするし、原初私の発生ともいうべき瞬間に立ち会う私なのか私は。ともかくギャっというのは口から出たんではなく心の動きみたいな音で、何故ならまだ05時50分だったから、ご近所さんのことを考えていて只でさえ隣に住んでる兄ちゃんはポーチではちあって私の顔を見るとどんな丁寧に「おはようございます」と言ってもそそくさ逃げるように弱めのダッシュをするのだから、いやもしかしたら私が無意識的に「殺すぞ」と言っていたのかもしれないが、日毎相当気を遣って生きている。いや言うわけないやろ。なんやねん。

家の外の方が安全という考えは昔から持っていて、逃げ場が無いのが怖いんではないかと考えている。特に二階建て三階建てのハウスというのは、自分のいない階層が上や下に広がっていると思うと、感覚的に言えば、うわーあかんやんという感じなのだが、空間は何かに占められているべきだという考えが根っこにある。勿論モノやなんかで占められてはいるのだが、そこになんかしら変な奴がいて、上からか下からか現れて、私を部屋の隅っこの方に追い込むのだ。私の考えによるとその変な連中は私がその空間というか改装をカラにするとポッと出てくるはずであるから、階段を複数人で上るか下るかするときには、ともかく私が先頭でないと落ち着かない。そうしておれば後から追いかけられたときに、ダーと逃げられるから、そうすると私は自分だけは助かろうという大変嫌な奴のようではあるが、そんなこと怖がるのは私だけなのだから、心の強靭な人々は優先席と同じことなんだと納得してくれるはずと思う。彼氏なんかは心が強いというかもう、選び抜かれたじゃがいもののようなものを胸の内に持っているようなもんであるから、一向気にしないというか、そんなこと考えたこともないんやろな、アホやから、まあ私に気を遣ってくれているのだが、こっちは必死であるから、無闇にズンズンと階段を攻めていき少しも可愛いげがない。一人で部屋にいるときにイアフォンを使うのも怖いが、この間大阪で私が想像していた通りの事件が起きて、ああやっぱりなというよりは、怖いことを考えていたらほんとに怖いことが起きてしまったような気持ちで、だからあまり考えるのは止しておく。

まだ気分的に11月であるというのに、もう今年も終わりっぽい感じになっていて、そうなると私自身何も忙しくないというかそんな意識ができていない内から年末にズモモと取り込まれていて、チクショー嫌だと思っていても、正直もう足の先くらいからぱっくりいかれてしまっている。年末年始に彼氏が来ることになって、例えば元漁船に乗っていた人らが口々に言うのは半年とか一年の久しぶりに会った妻を見て猛烈に女だと感じるという原初の感覚で、いやそれおっさん方セクハラですやんというのはあるが、実際モーレツで、確かに七夕くらいのエキサイトは当然起きてもおかしくないと思う。七夕は別にやらしい日ではないのだが、今モーレツと書いたときに女性に向かって牛が泣きながら列をなしているような気付きを得て、彦星くんが牛飼いなのを考えると、まあそういうことなんかなと思う。

忘年会でクルーズチケットというか周遊観光券的な景品をゲットしたのだから、まずはきっと彼氏とそれに乗るんだと思う。船業界で「サンタマリア」というとリストラを指すから随分不穏な船名だけれども、45分か60分の間船の上で手を繋いでいるというのも取り返しのつかないくらい素敵なことであるから、楽しみで仕方ない。

他にはまだ何も考えていない。いっぱいしたいことがあるようだけども、多分全部はできない。

清水ちゃんのSS

『君の体温』

 

 駅まで歩くのが好きだった、大学から隣町まで。午後イチの講義を終えてしまえば、僕はもう大学生でも何でもない、ただの暇人だった。昼に大盛りの素うどんを食べたせいか、講義を受けている間も学生ではなかったかもしれない、むにゃむにゃとした文字をただ書いてしまった。自分でも訳の分からなくなってしまったノートを鞄にしまうと、隣でも同じようにそうした。

「行くか」

 うん、と僕は頷いた。彼は講義の間眠っていたから、わざわざ白紙のノートを開いて、また白紙のままぺらぺらの鞄に押し込む。無駄なことかもしれないが、これってきっとパジャマと同じことなのだ。寝る前にあの感じの、ヒラヒラとか(というか)、フワフワしたものに着替えて、起きたらまた活動するための別の衣服に着替える。それって意味が無いように思えるというか、儀式みたいなみたいなものなのだ、寝るときの。これから寝るんだぞー、という感じなのだ。いや、そうでもないかもしれない。

 特に行き先なんて決まっていなかった、決定するのは隣町に向けて歩きながらなのだ、いつも。途中のコンビニで498円のワインを一本買って回しのみしながらベロベロ歩いたり、公園でめちゃくちゃなダンスを踊ったり、勿論途中にある彼の部屋によってテレビゲームをしたり、そのまま駅まで歩きついて本屋や、ボウリング場に出掛けたりもする。ともかく暇で、やることがなく、どうしようもない連中だった。

 彼がゆらゆら歩き出した、僕もあとを歩く。白いTシャツと薄ぼけた色のジーンズに雪駄を履いて、彼は大体そのような格好なのだけれど、この頃は少し寒そうに見える。

 並木沿いのスロープをおりて、門のところで友達二人とすれ違った。彼らも講義に出席だけして、あとから僕らに合流する。携帯がない頃は、どうして待ち合わせしたんだろうね、なんて彼と話しながら信号待ちをする。風景なんて見慣れたものだ。交差点の角には小さな神社があって、対角にはコンビニがある。おでんに関するのぼりが立って、でもそんなものは夏の間から既にあったような気がする。彼の胸にはシンプルな字体でBrooklynとあって、黒のメッセンジャーバッグにはManhattan、君ってどれだけニューヨークが好きなんだということはこの組み合わせがなされるときにいつも言ったし、今日は眠る前に彼がすちゃと取り出したエンパイアステートビルのペンで笑いあった。

 古本屋が連なる通りに入って、お互いのどちらかが立ち止まって、物色を始める。大して珍しくもない世界文学全集なんかは糸や布というよりは土の埃を被ってしまって、僕が入学したときから今も軒先に積んである。彼が日焼けして黄色くなった新書を二冊買って、ニューヨーク袋に押し込んだ。

 スーツの専門店が二着でどうの三着ならばこうのなどやっていたが、僕らにはまだ少し遠い話だった。同じ系列の牛丼屋さんが少しの距離を置いて三店あり、その内真ん中のお店が少しだけ他より美味しいことを僕らは知っていた。名画座では近親相姦をテーマにしたものを上映中で、僕はうげーと彼に嫌悪を示した。時おり見知った顔とすれ違うが、お互いに気まずくて挨拶もしないことがある、入学当初のクラスで知り合って、学年が上がってから疎遠にしてしまった人とは大抵そうだ。

 彼ともそのクラスで友達になった。着ているシャツの割には英語が下手だと教授になじられて、彼は何か面白いコメントを返してみんなが笑った。何を言ったのかは忘れたが、授業が終わったあとで僕らは握手をして、ナイストゥーミートュー的なことを言い、親友になった。

 駅が遠目に見えると、カラオケ屋さんとスーツ姿のサラリーマンが増える。隣に並んだ彼と、今日は何する、なんて話をやっと始める。そういったものが要は僕の日常で、今のところ生活の全部だった。

 話しながら彼のジーンズを眺めていた。ここにもCentral Parkなんて文字があったら面白いねと、顔をあげて言おうかとして

「あっ」

 彼と僕の距離が近すぎて、手の甲が触れあった。鏡あわせのように、さっと一瞬で手を引いて、少しの間、無言になって離れて歩く。何となく気恥ずかしくて、何も言えなくて、ほっぺたが熱くなった。

 二人とも黙って駅に着いて、煙草を吸いながらカラオケにしようと、やっと話すことができた。

 出会った時は手を触れ合って友達になったのに、友達になったらなんだか手が触れるのが恥ずかしく感じるなんて不思議で、これは仲良くなっているということなのかな、もっと仲良くなったら手が触れ合うなんて普通のことになって、抱き合ったり、キスをしたりするんだろうか、だって彼はアメリカンだから。そんなことを話そうとして、考えて、何を思ってんだ僕は、一人だけ顔が熱くなり、やっぱりカラオケはやめようと切り出した。

 そう、と彼が言うと冷たい風が吹いて、彼の腕に鳥肌が立った。やっぱり寒いのだ。

 彼の手は冷たかった。

チャラポワ

12月12日

ポルチーニが香る濃厚なクリームスープパスタ」を食べていると、ああ私って、いい女やなと思う。少し分量が足りないという問題があって、これがまたいいんやな。何事もほどほどにして、それってデキる女という感じがするし、中庸っていうか、つまりただの仏教やんかアホンダラという気持ちもしつつ。

こうして昼間に書いている文章というのは夜書いているのとは異なっているようで、同じ私なのに、バイオリズムというのがあるんでしょうか、しかし今日の夜の私というのは今ランチを終えたばっかしの私より余分に地球に住んでいるわけで、ということは時間が経過して、それだけ私より多くのことを知っているというか感じているはずの私が書く文章の方がちょっぴり良いもの(なにそれ)の気がする。その分私より数時間ばばあというかばあさまであるところの私は、書き間違いや繰り返しに気づくことができないかもしれない。

年をとるということはやっぱりそう大して良いもののように思えない。母は40過ぎてから常にどっかしら痛い痛いゆうて、そのくせ病院には行かないもんだからドッカシラ病な上アホンダラ教だからどうしようもなくて、なんや、悲しい気持ちになってしまう。ゆうて私もその内カカトがガジピシャと固まって、手なんかこう、どこか知らんがワニの体の柔らかな部分みたいにブニョブニョになるのは知っている。そうなってしまったらもうポルチーニがうんたらなんて言ってドヤ顔しておれず、ともかくもう必死のパッチ当てでドモホルンリンクルなんかを「ヤーッ」と被って外に出て、モチなんか 食うのだ、多分。

こうした言葉は使いたくないけども、年齢的に言えば、今日会社の若い子が辞めると表明した。表明しているということはもう肚は決まっているので、せっせ慰留なんかあったのだろうけど、ダメでしたということでした。どうも苦手な人がいるようで、それやったらしゃーないと思う。私だって、靴に画鋲というか、靴をクマみたいにデカい画鋲に突き刺しておいてやりたい相手が何人かおるし、くっついて行って家に火つけたろかなと思うこともあるけど、それやったら終わりやから、辞めた方がいいのだ。仕事がどうの場所がどうのと違って、人間同士の関係はお互いにこらコンチキだのなんやとこのアホンダラこらなんつって、影響を及ぼしあえる相手がそこにおるから、最悪やし、まあもうともかく終わりや。

退職する人が現れると、あーそうかここは所詮会社であったのだと意識される。そんな根詰めて働かんと、息抜きの合間に人生を送りたい。

集団生活

12月11日

指先が信じられないほどカサカサする。粉を触ったときでさえこんなにはカサカサにはならないと思うし、こすってもさすっても粉は落ちなくて、当たり前だけど、だからずっとカサカサで困る。

すごい寒いところにいて、風も強かったからと思う。先週から出張で広島に行っていて、私や周りにいた人たちの息とか肌の表面は恐らく、もう雲かなんかになっていて、昨日帰ってきて今日雨が降るのだから、これがそれなのだと思う。指示代名詞を私はとても大好きで、だからこれだのあれだのよく言うけれど、人から使われると、はよ言えやという気持ちになって目がグルグルの、ジリジリと脳みそが痺れてくるから、お願いだから使わないで欲しい。

週末ドックにいたときには乗組員がいて、工員がいて、安全監督や上司だの、私の仕事に関わるほとんど全ての人たちと一緒だったから、新幹線を降りて家に帰ったらとても寂しい気持ちになってすぐ寝てしまった。仕事が終わると食事も一緒で、お酒もモリモリ飲んだし、お風呂と眠ること以外は人といて、また朝御飯から誰か家族以外の人らといたのだ。家族以外の人らと集団で暮らすことに興味を持つ気持ちが私にはあり、それはひねくれた言い方でそうではなく、集団生活というものに憧れている。

学校で寮に入っていたとかシェアハウスをしているとかいう人を見ると、有り得ないものを見たみたいな気持ちになる。フィクションの人たちがいてるということか、私の中でそういうものは九竜妖魔學園紀や絢爛舞踏際なんか、要するにゲームのことだけなのだから、きっと周りに秘密のロマンスがあり、居室で語らって、何もかも一緒にして過ごしてきた人たちが何人もいるというのは、羨ましい限りで、口からぬああとか声が出てしまう。実際に行ってみると地元の女囚みたいな人たちが何人も集まっており、先輩が後輩に対し組織的激いじめを行って、要するに戸塚ヨットスクールなのだ、親も手に終えないキレた連中がぶちこまれているという側面も目の当たりにする。

田舎に移住してみたらえらい目を見たというのと同じことなのかもしれず、外から見ているだけでいいのかもしれないし、そもそも幼稚園のお泊まり保育が嫌すぎて同級生の子をパンチして(どうして夜になっても私は家にいず、この人たちは私の周りにいるのだと考えたら、急に恐ろしくなったのだ、と思う)泣かしてしまうような私が集団で生活を営めるとは思えない。けれども地元にあった丸窓の、かしこい女の子だけが住めるというような見た目をした大学の女子寮に、ハローキティの健康サンダルをピコピコと鳴らしている人がそう何人もいるとは思えず、というか実際そうなのだ多分、私の頭が悪かっただけで、なにかしらが私より数段上のガールたちはウフフやホホホでロビーのソファに集まって、美味しい紅茶なんかを、またはほろよいでも梅酒でもなんでもいい、持ち寄って楽しく過ごすこともあるかと思うから、それに私だって今やキレたナイフみたいな幼稚園児ではなく、喚くことやパンチすること以外にいくらでも意思表明の方法を持っているから、今なら参加してみたいという気持ちが沸き起こってくる。

羨ましいほんとに。でも私には無理だ。誰か他の人の家に行きたい。

昨日のことと今日のこと

12月4日

昨日が月曜日で今日が火曜日で今もそうだというのが変な気がする。初めて遅刻しそうになり、そうはならなかった。

とても大切な人か、あるいはクマか、または巨大な犬と熱烈に抱き合っていて、別れるときか再会したときのどちらかで、とてもこちらがまわす腕の力を、先に緩めてよいという雰囲気ではなかった。左の腕を相手の右腋下に差し入れて、右は、肩越しに背中にまわし、手に電話を持っていて、それがもうビービー鳴るのだ。一番大事なところを邪魔にしてやろうという、携帯電話の底意地の悪い側面が頂点に達した瞬間で、しかもそれは常にどうでもいい、取るに足らない内容だったため人差し指を物凄いスピードで動かして、かかってきた電話もまだかかってきていない電話も片端から切ってしまった。要するにそれは携帯の目覚ましが鳴っていたのであって、人差し指の懸命さのお陰で、いつも出勤している時間に家で目を覚ますことに成功していた私は、ほとんどそのままの顔にドライヤーとマスクだけあてがって出社したんだと思う。

雨の日の電車はもう間違いなく混んでいて、ほとんど見たことのない人たちの中に、更にほとんど見たことのない人たちが混じり、この人たちは普段どうして出勤してるのか、多分、歩いてか、自転車で、こういう日にだけいくらかのお金を払って電車に乗り込んでいる。傘を買って、そのまま電車に忘れて、そうするとほとんど行きがけのコンビニで300円を傘という形に変えて、そこに納めたのだという形になり、形というのはすごい、電車内で財布から小銭をいくらか繰り出して網棚や降車口付近にそっと置いていくというのはまだ見たことがないから、ともかく雨が降るときっと経済が動いている。

寝過ごしたのはきっと一昨日の夕方にMONSTERを飲んだせいで、もう日曜日が終わるのにモリモリと力を得るために、煙草と一緒に買った。ミドリのシュワッとしたやつで、美味しくはないけれどいかにも体に不足しているものを集めたという味がする、そのときは風邪だったから、失われた多量の鼻水とエネルギーと、体温はむしろ普段より増えているのだからそれを減産させたような、いつもよりまずかった。運動してお風呂に入り、動画を見てさあ寝るのだというときにモリモリ効いてきて、疲れているのに眠れなくなってベッドの上で布団を被ったり除けたりすることになってしまった。考えると、悪いのはエナジードリンクで、風邪をひいた私で、悪さをするウイルスで、私に移した元の宿主で、そこに居合わせた私で、場にいることを強いた会社で、そこに入社した私で、人のせいにしたいのだけど何故か私の存在が原因が詰まった袋様の空間の中に居合わせるから、やっぱり寝坊は私のせいなのかも知れなかった。

そんな風に決定的に考えると生まれた瞬間から一昨日遅刻しそうになることが決まっていたような気持ちになるけれど、そんなわけなかろうがと思うし、実際はたまたまなのだ。たまたまという言葉は上司が好んで、よく使い、今日も使っていた。過去グループ企業の会議みたいな場で、なぜ君のところはそううまくいくのといった趣旨のことを社長に聞かれ、なんとなく努力とふんばりでやってきたことをそう簡単に聞かれたことが癪だったので、たまたまですよと笑ってごまかし、上司はそのあとしばらく干されたらしい。それにしても、勤務中こんなに喋る人は珍しく、いつも何かしら喋っていて、私もいつもこの人ほんまによう喋るなと思っている。干されてもすぐ行く先で人と打ち解けて仕事ができてしまうので、前回似たような会議があった後の懇親会、件の社長が握手をしに駆け寄ってきた、やっぱり頑張ってれば正義は勝つんやなという話。うーんたしかに正義は勝つのだ、そうであって欲しい。

明日の朝は早いからエナジードリンクを飲んでモリモリ行こう。

パチガール

12月2日

起きたときに右の心臓が痛いというのはよくあって、心臓のやつに右も左もあるんかいな(あるんよホントに)という感じではある。

自分の心臓がどの辺と違ってどこにあるかというのは自分も親も知らない事実で、大体みんな知らんまま死んでいくんではないのか。長らく左にあると思われていた心臓が、教習所の救命講習のときには真ん中だと発表されて、えっ真ん中? いやホンマやいう具合で何となくそれも正に感じられたし、小学生のときには手首や首筋の脈を指してここにも小さなハートがあんのよ的ガールがいて、それもそのときは信じていた気がする。

あの頃のあの手の嘘っていうのは、

「うちに行ったらシルバニアファミリー全部あるよ」

「えっうそうそ」

→「えっホンマにうそやん……」

みたいなすぐにバレてなじられるタイプのものとは違って、みんな何となく変な感じしてるけど嘘を暴く証拠がなくて、というかそもそもダメージがあるとか虚栄心が大いに満たされるといったものではないから、「犬も歩けば棒に当たる」に大して、いやそれは違う、そんなこと見たことがないし、犬もと言いつつ人もそう大して当たらんわ、というか棒とは何みたいな反抗をしないのと似たような感じで嘘ではなく迷信とかことわざとかそんなとらえられ方をされていて、中学生になったら全員それは脈であるという知識を得るから、今さらそんなあのさ、あのときのなんて指摘しても誰でも知っていることをわざわざ言う方がバカじゃんみたいになって、ずるい、というか汚いうそだった。

体の断面図みたいなものを眺めるとどうもこの痛い部の内部には肺があるようで、しかし心臓が痛いはあるけど肺が痛いなんてあるかしら。

音だけは分かる

誰かが何かを言ったということに強い興味を覚えていた。話すことができなかったからだ。アホな携帯の予測変換みたいに、ほいじょんと関わりのない言葉が出てしまう。
そうしたことは勿論建前で、言ってみたら演技のようなものでさえあるけれども、音だけが同じで、意味を取り違うということは一度ではない、というか当たり前だ。無限だった。

今も私は音だけで生きている。言葉が一番厄介なのだ。耳は確かに音を聞いているのに、不思議なことが起こる。中身が分からないのだ。相手が何を言っているのか、それは確かに鼓膜をうまいこと振動させはするが、深い、という言葉が正しければそうした意味のところが理解できなかった。要するにアスペちゃんということなのだが、それにしても音だけは分かっているのだ、本当に。

耳が無かったら常々どえらいことになるのだろうなと考えていて、耳が無かったら音が無いのだ、ということでもないはずではあろうが、厳密に言うとすれば。厳密などという言葉を使うのは汚らしいというか、おじさんのようでまるで嫌なのだけど、ということは私は耳が無くなることを恐るるにあらず音が無くなることを恐れていた、同時におじさんが嫌なのだ、厳密ではなくそれを使いこなす風のおじさんが。

ともかくみんな何かしら言っとると思うし、それは植物や動物がということも含めて、私には聞こえないがそんな雰囲気がするといった極めた漠然さを抱える私であるのだが、音は好きだ。嫌いなものは数多くあるが、その中に音というのは含まれない、当然のことながら。音と言うのは広過ぎるのかもしんないな、音の中にもランキングじみたものがあって、というよりカースト制度か激しい身分制度なのだった、努力で何かが動くということはほとんどないから要は私が生まれた瞬間にそれを好きだったか、初めて聞いた瞬間に天に昇ったか、それだけなのだ。
おならの音は気に入っているけれども排泄の音は嫌だった、しかしおならの音の中にも細分化された制度があって、当然汚いおならは許されるべくもなかったのだが、そういった連中に限ってのうのうと尻から出てくるのだ。全ては構造化されているのだが、そこに私の好みと意思が関わることで何かしらややこしいことになる。いつでも。それすらも構造の一部としたら? ひゃあ!

そのことは逆に困るのかもしれない。生まれてから一度も音が無い静かな状態というのは無かった。何も無くとも何かが鳴るので、鳴ると言うのと違う、あるという方が正しい感じはあるのだが、やはり。寝ているときでさえ、無声映画のようだったことはない。同様に、映像が無いのに音だけは鳴るというのも無かった。それ以外の部分は寝ているときなのだ。音が無いと言うのとは違う、聞こえていないだけだ。似たようなものだが。音が無いから眠るのかもしれないが、そう難しく考えず眠り、音が聞こえなくなるというただそれだけなのだ、恐らくは。

よく考えろとしつこい人は言う。何をですかといった意味のことを聞き返すと、ともかく私は直前の話の内容なんて一つも覚えていないのだから、聞くしかなかったし、いつもそうする、極めて誠実な態度だった。慇懃だったと思う、ひょっとしたら美しくさえあったかも……。
大抵のおじさんは猛烈な怒り方をする。暴力を振るうことはなかったが、いつも腕を掴まれて強引に引き寄せることをするおじさんを想像して、恐怖に失神してしまう。こっちで仕事より楽しいことをしようゲッヘッヘなんつって、コラおっさん! 話違いますやん!
そうすると音は聞こえなくなる。お休みなのだ。

明日も何かしら聞こえて、何かしら言われるのやろか。