清水灯子の日記

都市か、あるいは郊外に住んでいる清水ちゃんの日記。

音だけは分かる

誰かが何かを言ったということに強い興味を覚えていた。話すことができなかったからだ。アホな携帯の予測変換みたいに、ほいじょんと関わりのない言葉が出てしまう。
そうしたことは勿論建前で、言ってみたら演技のようなものでさえあるけれども、音だけが同じで、意味を取り違うということは一度ではない、というか当たり前だ。無限だった。

今も私は音だけで生きている。言葉が一番厄介なのだ。耳は確かに音を聞いているのに、不思議なことが起こる。中身が分からないのだ。相手が何を言っているのか、それは確かに鼓膜をうまいこと振動させはするが、深い、という言葉が正しければそうした意味のところが理解できなかった。要するにアスペちゃんということなのだが、それにしても音だけは分かっているのだ、本当に。

耳が無かったら常々どえらいことになるのだろうなと考えていて、耳が無かったら音が無いのだ、ということでもないはずではあろうが、厳密に言うとすれば。厳密などという言葉を使うのは汚らしいというか、おじさんのようでまるで嫌なのだけど、ということは私は耳が無くなることを恐るるにあらず音が無くなることを恐れていた、同時におじさんが嫌なのだ、厳密ではなくそれを使いこなす風のおじさんが。

ともかくみんな何かしら言っとると思うし、それは植物や動物がということも含めて、私には聞こえないがそんな雰囲気がするといった極めた漠然さを抱える私であるのだが、音は好きだ。嫌いなものは数多くあるが、その中に音というのは含まれない、当然のことながら。音と言うのは広過ぎるのかもしんないな、音の中にもランキングじみたものがあって、というよりカースト制度か激しい身分制度なのだった、努力で何かが動くということはほとんどないから要は私が生まれた瞬間にそれを好きだったか、初めて聞いた瞬間に天に昇ったか、それだけなのだ。
おならの音は気に入っているけれども排泄の音は嫌だった、しかしおならの音の中にも細分化された制度があって、当然汚いおならは許されるべくもなかったのだが、そういった連中に限ってのうのうと尻から出てくるのだ。全ては構造化されているのだが、そこに私の好みと意思が関わることで何かしらややこしいことになる。いつでも。それすらも構造の一部としたら? ひゃあ!

そのことは逆に困るのかもしれない。生まれてから一度も音が無い静かな状態というのは無かった。何も無くとも何かが鳴るので、鳴ると言うのと違う、あるという方が正しい感じはあるのだが、やはり。寝ているときでさえ、無声映画のようだったことはない。同様に、映像が無いのに音だけは鳴るというのも無かった。それ以外の部分は寝ているときなのだ。音が無いと言うのとは違う、聞こえていないだけだ。似たようなものだが。音が無いから眠るのかもしれないが、そう難しく考えず眠り、音が聞こえなくなるというただそれだけなのだ、恐らくは。

よく考えろとしつこい人は言う。何をですかといった意味のことを聞き返すと、ともかく私は直前の話の内容なんて一つも覚えていないのだから、聞くしかなかったし、いつもそうする、極めて誠実な態度だった。慇懃だったと思う、ひょっとしたら美しくさえあったかも……。
大抵のおじさんは猛烈な怒り方をする。暴力を振るうことはなかったが、いつも腕を掴まれて強引に引き寄せることをするおじさんを想像して、恐怖に失神してしまう。こっちで仕事より楽しいことをしようゲッヘッヘなんつって、コラおっさん! 話違いますやん!
そうすると音は聞こえなくなる。お休みなのだ。

明日も何かしら聞こえて、何かしら言われるのやろか。