清水灯子の日記

都市か、あるいは郊外に住んでいる清水ちゃんの日記。

なんで日記

5月19日

 

いつも書こうと思っていて、日記を。ケータイのメモ書きにこんなんあった、こんなんやった、というのを残していくのであるが最近はそれを読み返してみると「スクレッパー×2、ハンマーでお尻を叩けるやつ」とか「ギャレーの床を次回ドックで張替えませう」とか「経費精算、谷四、大阪港」そんなんばっかで、駅前のランチがうまし酒、みたいなことは一個も書いてないしあかんでホンマ、そんなんですぐばあ様になってしまう、その時に孫がいるかも知らんけど。

なんでもかんでも記録してしまうのが好きで、ほんとは、そのくせ大方は死蔵してポカーンと忘れてしまうのだから彼氏からはいつもリス呼ばわりをされるのだけれど、今のおうちに引っ越してくるときに気が付いたのが、私は私が知らないうちに私のモノが消えていってしまうのがものずごく嫌で、ともかく恐ろしい。普段は全く気にも留めないし存在を思い出しもしないのだけれど、本やら写真とか、だから常では忘れていてあってもなくても良さそうなのが、何かの拍子に思い出して、家のどこか、押し入れかベッドの下か、そこに確かにあるはずだということが、わざわざ引っ張り出してはこないのだが安心をもたらす。所有するという行為というか状態に並々ならぬ関心があるのか、小さい頃に何度か転居して、ふと思い出して『まんが・体のふしぎ」とか「なぞなぞ・クイズ」を読みたくなったときにどこからも見つからなくて、まあ親が判断で捨てていたんですわな、喪失感ゆうものなのか、失ったことを確信したそのときにへたり込んで動かれなくなってしまった。

関東から関西に越してくるときに、すべてのモノを段ボール箱に必死こいて詰め込んで、なんとなくその時に、昔から持っていたものとそこで住んでいた時に増えたもの、荷物の総量が合わないというか少ない感じて、でももう私にはそれが何なのかは分からず、思い出すこともできないまま多分そのモノ自体は何らかの理由から本当に失せてしまっていて、何かを失くしたという感覚だけが残って、しかもそのうちの大部分かいくつかは、その感じさえもないのだ多分、記憶からも私の所有からも離れ出て、永久に消え去ってしまった。寂しく思うし、厳密にいえばそのものについて寂しいと思いを馳せることすらほんとはできず、いやもう実に寂しい、私にとり。ひょっとしたらガールの頃の私はものすごくお気に入りのおにんぎょさんがあって、毎日一緒に寝ていたのかもしれず、そうだとしてもその人形は今は勿論のこともう無くて、私もそんなことがあったとは知らないし、カンペキきれいさっぱりという感じでぽっかり穴が、いや穴さえなく、そんなあってもなくてもどうでもいいようなことをいつもクヨクヨと考えてしまう。

言ったことや、感じていたそのときの気持ちというのはもっと簡単で、キッチンからウイスキーを運んできたと思ったらタバコが無くて、お酒飲むときはタバコもくもく吸いたいやん、コンビニに買い出て、まあきれいなお星さまオホホなんつって店の前でタバコ吸って、帰って机に座ったら飲み頃のウイスキーが待っていてうおーラッキーやなーとグビっと含み、そういえばなんでさっき外に出たんやっけと30秒くらいぼーっとしてそうや、タバコやと思い当たって火をつけ、グラスからん、ちびり、すぱーの、あー幸せやと思うような私の脳みそはザルみたいなもんで、だから日記を書いてきちんとそれを残しておきたいゆえに書かんとす。

 

こうも仕事がドドドと押し寄せてくると書けんで、書かん内からびちゃぼちゃとなんかしら私にとり重要っぽいものがだだ漏れになるのはしんどいし、今思い出したのが西遊記にそんな果物があったよなということで、赤子のかたちをしているのだがちゃんと果実していてこれがもううまいと、金気を嫌って木を好むとかそんなんで、如意棒で突っつくと落ちてくるも適切な器で受け止めないと地面にヒュボッと下水みたいに消えてしまう、結局首尾よく手に入れる方法を見つけた悟空らが食べまくって、あとからそこの下男みたいな人らが5000個なってたはずなのに14個足りないお前ら食うたやろみたいなことではてさて、一行の旅路はどうなりますやらと、何の話やねん、ともかく一番しんどいのは、仕事が終わって夜、家でゆっくりしているところに52歳のおっちゃんから酒を飲んで泣きながら電話がかかり、おんなじ愚痴を何周も聞かされながらまあまあまあええことありますよと慰留することで、まあ、50歳の男が泣きたくなるような仕事だというこっちゃ。

 

仕事の合間にかろうじて、大学の先輩が話すたびにレコメンしてくるところの『サピエンス全史』を私も読むところのものであって、上巻を終えたところなのだけれど、チンパンジーの場合はこんなして暮らしてるという説明でアルファオスという用語があり、うまいことみんなに顔を売ってその群れを占めるような存在なのが、その次のページで「現代のアルファオス」というコメントを添えてキリスト教の司祭の写真を載せていたのには笑ってしまった。人を顔で判断するのは良くないこととは思いつつ、いやでもそれはほんとにそうよ、本の開きはじめや手の滑ったときにちょいちょい見てしまう作者の顔は、がいこつみたいに痩せた感じにじっとこちらを見つめていて、確かにぽろっと時たま面白いことを言いそうな面ではあった。

 


日記を書くのに日記を書く理由だけを書きつけて、でももう疲れてしまった。彼氏が私が過去発したおもろいことを言うときに、私由来であることを忘れた私はなんそれめっちゃおもろいやんメモっとこ、なんつって都度リス呼ばわりされるのだが、どんだけ自分の言葉好きなん私、いや好きやけど。でも疲れてしまったから、仕方がないのだ、今日は、ここまで。