清水灯子の日記

都市か、あるいは郊外に住んでいる清水ちゃんの日記。

清水ちゃんのSS

『君の体温』

 

 駅まで歩くのが好きだった、大学から隣町まで。午後イチの講義を終えてしまえば、僕はもう大学生でも何でもない、ただの暇人だった。昼に大盛りの素うどんを食べたせいか、講義を受けている間も学生ではなかったかもしれない、むにゃむにゃとした文字をただ書いてしまった。自分でも訳の分からなくなってしまったノートを鞄にしまうと、隣でも同じようにそうした。

「行くか」

 うん、と僕は頷いた。彼は講義の間眠っていたから、わざわざ白紙のノートを開いて、また白紙のままぺらぺらの鞄に押し込む。無駄なことかもしれないが、これってきっとパジャマと同じことなのだ。寝る前にあの感じの、ヒラヒラとか(というか)、フワフワしたものに着替えて、起きたらまた活動するための別の衣服に着替える。それって意味が無いように思えるというか、儀式みたいなみたいなものなのだ、寝るときの。これから寝るんだぞー、という感じなのだ。いや、そうでもないかもしれない。

 特に行き先なんて決まっていなかった、決定するのは隣町に向けて歩きながらなのだ、いつも。途中のコンビニで498円のワインを一本買って回しのみしながらベロベロ歩いたり、公園でめちゃくちゃなダンスを踊ったり、勿論途中にある彼の部屋によってテレビゲームをしたり、そのまま駅まで歩きついて本屋や、ボウリング場に出掛けたりもする。ともかく暇で、やることがなく、どうしようもない連中だった。

 彼がゆらゆら歩き出した、僕もあとを歩く。白いTシャツと薄ぼけた色のジーンズに雪駄を履いて、彼は大体そのような格好なのだけれど、この頃は少し寒そうに見える。

 並木沿いのスロープをおりて、門のところで友達二人とすれ違った。彼らも講義に出席だけして、あとから僕らに合流する。携帯がない頃は、どうして待ち合わせしたんだろうね、なんて彼と話しながら信号待ちをする。風景なんて見慣れたものだ。交差点の角には小さな神社があって、対角にはコンビニがある。おでんに関するのぼりが立って、でもそんなものは夏の間から既にあったような気がする。彼の胸にはシンプルな字体でBrooklynとあって、黒のメッセンジャーバッグにはManhattan、君ってどれだけニューヨークが好きなんだということはこの組み合わせがなされるときにいつも言ったし、今日は眠る前に彼がすちゃと取り出したエンパイアステートビルのペンで笑いあった。

 古本屋が連なる通りに入って、お互いのどちらかが立ち止まって、物色を始める。大して珍しくもない世界文学全集なんかは糸や布というよりは土の埃を被ってしまって、僕が入学したときから今も軒先に積んである。彼が日焼けして黄色くなった新書を二冊買って、ニューヨーク袋に押し込んだ。

 スーツの専門店が二着でどうの三着ならばこうのなどやっていたが、僕らにはまだ少し遠い話だった。同じ系列の牛丼屋さんが少しの距離を置いて三店あり、その内真ん中のお店が少しだけ他より美味しいことを僕らは知っていた。名画座では近親相姦をテーマにしたものを上映中で、僕はうげーと彼に嫌悪を示した。時おり見知った顔とすれ違うが、お互いに気まずくて挨拶もしないことがある、入学当初のクラスで知り合って、学年が上がってから疎遠にしてしまった人とは大抵そうだ。

 彼ともそのクラスで友達になった。着ているシャツの割には英語が下手だと教授になじられて、彼は何か面白いコメントを返してみんなが笑った。何を言ったのかは忘れたが、授業が終わったあとで僕らは握手をして、ナイストゥーミートュー的なことを言い、親友になった。

 駅が遠目に見えると、カラオケ屋さんとスーツ姿のサラリーマンが増える。隣に並んだ彼と、今日は何する、なんて話をやっと始める。そういったものが要は僕の日常で、今のところ生活の全部だった。

 話しながら彼のジーンズを眺めていた。ここにもCentral Parkなんて文字があったら面白いねと、顔をあげて言おうかとして

「あっ」

 彼と僕の距離が近すぎて、手の甲が触れあった。鏡あわせのように、さっと一瞬で手を引いて、少しの間、無言になって離れて歩く。何となく気恥ずかしくて、何も言えなくて、ほっぺたが熱くなった。

 二人とも黙って駅に着いて、煙草を吸いながらカラオケにしようと、やっと話すことができた。

 出会った時は手を触れ合って友達になったのに、友達になったらなんだか手が触れるのが恥ずかしく感じるなんて不思議で、これは仲良くなっているということなのかな、もっと仲良くなったら手が触れ合うなんて普通のことになって、抱き合ったり、キスをしたりするんだろうか、だって彼はアメリカンだから。そんなことを話そうとして、考えて、何を思ってんだ僕は、一人だけ顔が熱くなり、やっぱりカラオケはやめようと切り出した。

 そう、と彼が言うと冷たい風が吹いて、彼の腕に鳥肌が立った。やっぱり寒いのだ。

 彼の手は冷たかった。